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ライン

『素敵な笑顔に出会いたい』

ちょっと無理して出かけてみよう
        きっと素敵な友がいる
 ちょっと無理してやってみよう
         きっと新しい自分が見つけられる

まず出来ることから始めよう
     肩の力を抜いて
         しかしあくまでも青年らしく前向きに
 さあ 上着を脱いで
     うでをまくって 汗をかこう
         机の上で考えているのは似合わない



中山欽哉どこから来たの?
昭和34年3月24日に北海道の炭坑町で有名な大夕張で生まれる
幼少のころに東京へ上京する…世田谷・板橋・赤羽へと流れ流れて
昭和45年から現在のさいたま市(大宮市)に…のち結婚し定住する
1959年3月24日(昭和34年)生 イノシシ年 五黄土星 血液О型

フォトヒストリー
プロフィール



どんな人なの?

過去    かなりの悪ガキ?
出生〜20才代        それなりに〜ですね

東京都北区の赤羽の団地で、幼稚園から小学校高学年時代までを過ごしました。
下町にあった「みのり幼稚園」では、女の子のハンカチを隠して泣かせていましたね。
赤羽台団地の第一公園では、宮脇ケンちゃん(★)と遊だりしていました。

「赤羽台東小学校」時代には、職員室を通り越して校長室に呼び出されていたので、父親は仕事で忙しいのに、PTA役員を受けてカバーしてくれました。

そんな父親も、私が中学1年生の秋に交通事故に遭い、40歳の若さで亡くなり、以来、つらい母子家庭でありながらも、わがまま一杯に育ちました。
高校時代は、「親父と酒が飲みたいよ〜」 と言って母を困らせました。
深夜にバイクを走らせたこともありました・・・孤独な走り屋でしたねぇ〜。

早く社会に出て働きたい・・・職業資格を取得するために歯科技工士の専門学校に入学しました。結構要領が良くて?学校での成績は常にトップクラス。
無事に国家試験をパスし、資格を取得。
卒業後、浦和に新設した開業医に勤務しました。元来細かい作業や仕事が好きでしたので天職と思い、毎日がとても充実していて新しい技術の取得に励み仕事が楽しかったですね。

ある年の社員旅行先の下田プリンスホテルで、運命的な出会いがありました・・・そして結婚。
実は、私の奥さんは歯科衛生士なのでした。
いったいその時何があったのでしょうかね?私の記憶は薄れましたが・・・


現在   今も悪ガキしてる?
30才〜40才代     もちろんしてない?ですよね


時はバブル絶頂期〜10年近く勤務したある日、突然の独立宣言!!
今までの「入れ歯」相手の仕事から、人間相手の不動産会社を始めます。
「物件」が貼ってあるウィンドウを、お客様が見ていても話しかけられずに、代わりに社員に商談してもらっていたという状態…なんにも専務でしたね。

その後、知人から「青年会議所(JC)」に誘って頂き、思いっきり乗っ込み様々なボランティアの活動や、自己研修セミナーなどを経験しました。
その活動の中で現状に対して、色々な疑問や不満を持ち始めていました。

JC専務理事に就任中の、ある飲み会の席上で「自分たちが日々の活動の中で困った事を相談したり、解決する手段とは何があるのだろうか?」
などと討論している時に、「やっぱりまちづくりの道具は議員でしょ!」と・・・そして、年末に行われる予定である市議会議員選挙の話題になりました。

「立候補者が定数割れして選挙にならないらしいぞ・・・」

それでは、自分たちの仲間の中から、まちづくりの道具の「議員」を出そうよ!
・・・とは言ってはみたものの、誰も具体的に選挙の仕組みも知らないし、選挙カーの運転手かポスター貼りの手伝いくらいしか経験が無い!
しかも選挙告示まで半年しかない・・・選挙は無いんだから簡単だろうに、誰か勇気を持って手を挙げないのかな〜?(他力本願な思いですね)


子どもの目の輝きが欲しい〜

この年の4月、フィリピンのピナツボ火山噴火の被災地であるアエタ族の住んでいたエリアは、 大量の火山灰に埋まり村人は他の地区への移住を余儀なくされ困っていました。
その村の支援ボランティアに行って、植林作業などを行い日本に戻ってきたところでした。

フィリピンのドント地区には、ゴミ集積の山「スモーキーマウンテン」があり、常時自然発火してくすぶっており異臭を放っています(ダイオキシンだらけだろうな)。
そのゴミの山の中に、廃材やダンボールで作った小屋を建て暮らしている人々が大勢いるのですが、大半は地方から職を求めて出稼ぎに来た人々だそうです。
フィリピンの失業率は45%(当時)といわれ、日本企業の進出と経営方針の影響が大きいためだと説明を受けました。

そこに住む大人たちは働かずに、自暴自棄ともいえるシンナーや薬物に浸り、子どもたちは運ばれてくるゴミの中から、リサイクル品として換金出来るものを 、動いているブルドーザーの下敷きになりながらも我先にと奪い合っているという姿を目の当たりにしました…まさしく「必死」に…。
自分の子どもと同じ年頃ではないか・・・同じ地球上なのに生活環境はこんなにも違う・・・。

自分たちが生きるために命を賭けて稼いだ金は大人たちに巻き上げられ、まだ食べられそうなものを拾い食いしている幼い姿に言葉を無くしました。
こんなにも苦しい生活をしているのに、子どもたち一人一人の目は輝いている。
はたして日本の子どもたちの目はこんなに輝いていただろうか?
「何か自分に出来ることは無いのだろうか?」
真剣に考えました ・・・。

一方、マニラ市内にはストリートギャングと呼ばれる路上に生活している子どものグループもいました。様々な犯罪に手を染めて、観光客から物品を盗んだりしながら生活している彼らの目は鋭かったが、輝いてはいませんでしたね。

日本に帰ってからも、常に「何か自分に出来ることは無いのだろうか?」
「日本の子どもたちは、目を輝かせる事を忘れてしまっているのでは?」
頭から離れずいつも考えていました…。
はたして議員は人づくりの手段となりえることが出来るのだろうか?



「実は選挙に立候補しようかな〜と思っているんだけど・・・」

「できっこないじゃない」
「そんなの無理だよぉ〜」
「まだ早いんじゃない?」
「資金が無いんでしょ?」
「あんた経験あるの〜?」


それらの言葉を聞いているうちに『やってみなけりゃ分からない事を何で頭から否定するんだ?』『青年らしく前向きに何にでも挑戦してみようよ!』という思いがどんどん強くなり、気持ちが一人歩きして進んで行きました。



「市議会議員選挙に立候補します!」

我慢できずに、ついに言ってしまいました…正直不安で一杯というのが本音。
当選はもちろん果たしたいけど、それよりも『若い仲間が「勇気と情熱」を傾け、心を一つにする事により、どれくらい一体感を持った選挙戦が実現出来るのかという事に挑戦してみたい』そのための手段として選挙を選びました。

同士の輪が広がると、互いにテンションが高まり益々乗っ込んで行きます。
支援していただける人たちが増えていくのが、確実に実感できます・・・。
それでも結果を求めるとなると、不安感で押しつぶされそうになります・・・。

約5ヶ月前に始めた、素人集団のボランティア選挙が無事終了しました。
初めて経験する事ばかりで戸惑う中、大勢の皆さんからの暖かい協力を頂いたお陰で、乗り越える事が出来ました。ありがとうございました。



《選挙結果》
定数40議席 立候補者数48名
中山きんやは40位に当選です!


「うわぁ〜やったねぇ〜」手伝ってくれた皆が叫んで万歳をしています。
私は 「本当だよね!やったんだよね?当選しちゃったんだよね?」

数日後、少し冷静になってから考えました。
「どうしよう・・・当選は果たしたかったけど、何をしたら良いんだろう?」

一人で考えている時にふとひらめきました・・・「選挙中に必死になって皆さんに伝えていた事を、一つ一つ実行していけば良いんではないか・・・」
本日まで常に市民と視点を同じにして、現場発信・実践主義に徹底して参りました。

まず最初は、福祉の事を公約に語る御仁は多いが、実際に現場に来ている議員の姿を見かける事が少なかった。
たとえ来たとしても、困り事や相談事を聞いているだけ(議員自らが心を開いていないから相手にされない=来る気が無くなる)
相手の立場になって物事を捉えるには、普段から一個人として一緒にいることが大切だし、 友達なら相手を理解しようとして努力するはずでは?


手話講習会へ通う〜

そこで、身分を言わずに「手話講習会」に通い、聴覚に障害を持つ人たちのコミュニティー手段である、手話を身に付けて一市民として交流を始めました。
(ずるかったかな?しかし議員というだけで、態度が一変する人が多いのも事実ですよね。所詮議員だから○○とか・・・そんなことないのに辛いよね〜)
地元に手話サークルを設立し、地域の聴覚障害者との交流の場を作りました。
その後、聴覚障害者協会と手話通訳研究会から市内で個々に活動しているサークルや勉強会を一つのつながりに出来ないだろうか?と相談されたのをきっかけに「大宮市手話サークル連絡協議会(市サ連)」を設立させました〜。
ボランティアで集まっている皆さんの熱意には素晴らしいものがありますよね〜。

今では私の第2言語は「英語」ではなくて、「手話」が第2言語となりました。
街頭で外国人から英語で話しかけられた時などは、つい手話で返事をしてしまい苦笑いします・・・あんたも手話覚えなよと日本語で言ってます(笑)

もしも、「手話」が全世界共通の表現手段となるならば、聞こえないというハンディキャップは、手話表現が出来る事で、世界の人々とのコミュニケーションが出来るという、アドバンテージになるのではないかと思っています。
そんな真のバリアフリーの世の中の実現に向けて、全力で邁進したいです。

☆手話は使わないでいると、どんどん忘れていきますよね、手話の技術を身に付けた皆さんは聴覚に障害を持つ人たちと積極的に交流しましょうね。
《自分に言い聞かせています》



市議会1期目の4年間は、全て初めての事ばかりで緊張の毎日でした。
長老議員の睨みは怖いし・・・若さを強調すると10年早いと言われるし「議会の改革をするには、自分と気持ちを同じくする人たちが半数以上になった時でないと出来ないな・・・次の選挙で交代があれば可能かも、その時が来るまで気持ちを変えずに頑張り抜かなければならないんだ」と決意したのが、議会に入ってからすぐに感じた素直な気持ちでした・・・。



未来   きっと落ちつくことでしょう
50才〜限界       でも〜やっぱりそれなりに??




大胆に〜謙虚に〜確実に〜
 私は、多くの議員さんのようにPR上手ではありません。私は考えます。市民の代表者である議員が本当に目指さなければならない事は、 政党のPRでも、 個人的な売り込みでもなく、 市民の誰しもが「いつのまにか住み良くなったな」と感じてもらえるような、常に市民全ての人と同じ現場に立ち、同じ汗をかき一緒に考える「現場実践・現場発信主義」でなければならないと。
 福祉の充実を訴えて政治活動をするのは結構なことであります。
しかし、行政に対して改善提言をする時に障害を持つ当事者を盾として利用する行為は断じて許されることではありませんし、そんな必要性はないはずではないでしょうか。
政治は誰がやっても同じではありません。地方も国も、政治に関わり携わる人物・人格によって大きく変える事が可能であります。
 中山きんやは、これからも「議員は皆さんのまちづくりの一つの道具」というスタンスで、手段と目的を取り違える事なく、若さと情熱を忘れずにがんばり続けます。

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