出生から現在

昭和34年4月に「皇太子ご成婚パレード」が執り行われましたのは、皆さんの記憶にも残っていることでしょう。
その数週間前の同年3月24日に私は北海道で生まれました。
当時、私の両親は北海道の小樽から東京に移り住み仕事をしておりましたが、母親の両親が炭鉱の町で有名な夕張市大夕張で消防士をしていたため実家で出産し、私の出生地は北海道大夕張となりました。
当時の大夕張の人口は2万3千人で、石炭採掘量は最高を誇っておりましたが、昭和48年に三菱大夕張炭鉱の閉山により、その後の人口は激減してしまいました。
その頃の国鉄路線は電化されておらず、廃線となる最後まで蒸気機関車が走っていました。
夕張といえば「夕張メロン」や、高倉健が主演した映画「幸せの黄色いハンカチ」の舞台になった町と想像されるのではないでしょうか。

生まれてすぐに父の待つ東京へ戻りましたが、両親が共働きでしたので、夏休み冬休みになると幼稚園、小学校を通しておじいちゃん、おばあちゃんの居る北海道へ一人で飛行機に乗せられて田舎暮らしを満喫していました。
子供の頃の大夕張の思い出といえば、朝早くから鳴り響く蒸気機関車の汽笛の音と、煙突から勢い良く吐き出されていた蒸気機関車独特の煙の匂い・・・。
小さな駅の改札を出ると、荷馬車のワダチが残る舗装されていない道路があります。
重い荷馬車を引く馬は、白い息を吐きながら馬糞を落としており、その藁混じりの臭いも強烈な思い出として残っています。
夜、寝る頃になると生協のスピーカーから流れてくる「はにゅうの宿」のメロディー…。
また夏祭りの時期には、
針金を曲げて取っ手を付けた空き缶の中に、ロウソクを立てるための釘を打ち付けた「カンテラ」のようなものを作り、日が沈み暗くなると子ども達は「ロウソク一本ちょうだいな〜」と言いながら近所の家を一軒ずつ廻り、ロウソクではなくお菓子を沢山もらいましたね。
お盆には灯篭を作り、町に沿って流れる川で大人と一緒に灯篭流しを体験し、
大人たちから「お盆に川に入ると、引っ張られて帰ってこれなくなるよ」と言われて怯えていたこと…。
白いビニールネットに入った大きなスイカをぶる下げて、おばあちゃんと歩いたあの夕焼けに染まる小道が、今でも脳裏に浮かびます。
厳寒期には、一晩雪が降り続くと玄関の戸が開けられないくらいに雪が積もってしまいます。
鼻を垂らし、両手を真っ赤にしながら作った小さなカマクラ…。
八軒長屋でハーモニカ住宅と呼ばれていた炭鉱住宅では、水道が完備されていませんでしたので、家の中に準備した大きな水がめに共同井戸から水を一生懸命に汲んできたこと…。
また、その水に独特の香りや臭いがあったことなどたくさんの思い出があります。

思い出がいっぱい詰まった、我が故郷「大夕張の町」は、平成9年に新しいダム建設計画が決定し、町は閉ざされてしまうこととなりました。
かつては、壮大な夕張岳を仰ぐ大夕張は戦後の復興の要として活況を呈しており、学校は子ども達の歓声にあふれ、男たちは地底で黒ダイヤを採掘して町は最高の賑わいを見せておりました…が、現在では、わずかに残っていた住民も全国に散らばり新しい暮らしを始めているそうであります。
私の故郷は、今まさに水の下に消えていこうとしています。
「ダムに沈む町の話…」過去に全国各地で、この話は聞いたことがありましたが、いざ自分の身に降りかかってみて、初めて自分の町が、故郷が無くなってしまうことの悲しさを知りました。
今は、表現のしようの無い悔しい気持ちと、故郷を失いたくないという気持ちで一杯であります。
ダムが完成し、水が貯められてしまう前に、是非自分の子どもを連れて訪ねようと考えています。

生まれてすぐに、東京の世田谷〜板橋と暮らしたわけでありますが、この頃はチャコちゃんヘアをして、電車に見立てたリンゴ箱に入り遊んでいる写真があります。
4歳になる頃に、赤羽の高台に公団住宅が建設されたのを期に私の家族は移り住みました。
赤羽駅の西口からは、比較的急な坂道を上がらなければなりませんでした。
夕方、その坂を上がるとアセチレンランプの灯る屋台で、大きなお腹をしたおじさんが焼鳥を焼いていたのを覚えています。父親に「あのおじさんは、何でお腹があんなに大きいの?」と良く聞いていました。
その答えは「ビールの飲みすぎで、ビールっ腹というんだよ」と教えられていました。
現在、私は自然とビールを避けて飲まないのは、この頃の思い出が脳裏にあるからかもしれません。

私たちは団地の5階に住んでいましたので、小学生の頃には学校帰りに1階から4階までの全ての家のチャイムを鳴らしながら帰ってきていました。
現在でいうピンポンダッシュというやつですね。
毎週日曜日の朝になると、1階から4階までの住人が我が家を訪ねてきていました。
もちろん、全ての住人が文句を言いに来ていたわけですから、皆が帰ったあとでキツイお灸をすえられていました。
本当に火が付いている線香でしたのでとても熱かったですね。

しかし、全然懲りずに学校でも、針金と輪ゴムと割り箸で作った釣竿を使って、給食で残したパンを餌に池の鯉を釣っていて先生に見つかり、職員室を通り越して校長室に呼ばれておりました。
その頃、父親は仕事が忙しいにも拘わらずPTAの役員を引き受けてくれ、悪ガキの私を見守ってくれておりました。
この時でしたね自分も子どもが出来たらPTAをやるもんだと思ったのは…。

そして、小学校5年生の時に、区画整理終了間際の埼玉県大宮市に、土地と建物を購入し引っ越してきました。
こちらに越してきて、私が中学1年生の秋に、深夜まで働いていた父が交通事故に遭い亡くなりました。
亡くなる日の夕方、夜に東京の営業所に出かける準備のために一度帰ってきた父に、夕方遅くまで遊んでいた私は叱られました。
その時うかつにも、その父親に反抗して言葉を返してしまいました…。
なんと悲しい最後の会話だったのだろうかと、今でも悔やまれてなりません…。
翌日、父の死を信じたくない私は、最後まで棺の中を見ることが出来ませんでした。

私には妹が2人おりますが、母は子ども3人を抱えて父の残した営業所を引き継ぎ、昼に夜にと働いていました。
私は早く社会に出て母を助けなければと思い、高校卒業と同時に地元に開校した歯科技工士の専門学校に入学し、国家試験に合格して卒業後、浦和の歯科医院に歯科技工士として就職しました。
26歳の時に歯科衛生士として勤務していた女房と知り合い結婚をし、現在では3人の男の子を授かっております。
振り返れば、父が亡くなったのが現在の私の歳(40歳)の時であり、長男もあの時の私と同じ中学一年生であります。
あの時、父はこんなにも若い時に、また子育て真っ最中の時に逝ってしまったのかと考えます。

10年間勤めた歯科技工士から、母親の仕事の手伝いとして自分の不動産会社を設立し転職し独立しました。
しかし、今まで入れ歯を相手にしていた職人が、いきなり不動産の営業など出来るものでもなく、物件を見ているお客が居ても声をかけることなど出来ないというありさまでした。

友人から誘われるまま、青年会議所という団体に入会し、自己研修やボランティアの体験を積み重ねていくうちに、段々と人と会話が出来るようになり、色々な設営や運営、書類の作成などが出来るようになりました。
これは大変にありがたいことでありました。

そんな時に、車が真っ二つになるような大きな事故に遭いましたが、私は偶然にも生かされました。
その後、
もやもやとした気持ちの中で「自分が社会に対して何か貢献できるものはないのだろうか?」と探しておりました。
そんな時、友人たちと酒を飲んでいて「今年の暮れの市議会議員選挙は無投票みたいだね」という言葉を耳にしました。
その頃の私は青年会議所の専務理事という立場でした。
自分の所属している会は「明るい豊かなまちづくり〜を目指します」と盛んに言っているが、言っている事とやっている事のギャップに対しての不満も抱えておりましたので、まちづくりの道具となりえる議員という立場を得て、メンバーが普段から言っていることを実現したり、メンバーの意識高揚の一助になればと思い、政治や選挙の知識は全くありませんでしたが、猪突猛進「選挙に出る!」と手を挙げていました。

しかし、全くの素人選挙であり、頼りになる組織や団体も数少なく、とても当選できる戦いではありませんでした。
私がその時に目標にしたものは、当選ということのみではなく、一つの目標を掲げて、そこに歩み寄った仲間が意識を高めながら「無理だよ」と思われることに対して、どれだけの挑戦をすることが出来るかどうかということでした。


選挙の結果は、偶然にも当選でありました。
今の時代が、あるいは皆さんの期待感が、名も無い私に議員という「まちづくりの道具という立場」を与えてくれたのだと心の底から思いました。
「議員をやりたい〜という人に任せるのではなく、皆さんが任せたいと思える人に投票しましょう」と訴えていましたが、果たして自分が任せて安心な人間なのか? その立場にふさわしいのか? とも迷いました。
しかし「何事もやってみなければ分からないじゃないか。日常は一般の市民と同じでいて、改善提言をする時に議員としてのバッチを付ければ良いんだ」と自分のスタンスを決めました。

初めての議員としての一期4年間は、福祉関連と環境関連の現場に飛び込んで行きました。
幸い?にも議員としての顔を知る人は少なかったので、同じ仲間として受入れてもらえ、困っている現場の生の声を聞かせてもらうことが出来ました。
その4年間で、多くの困っている人たちと知り合い、こんな私でも頼りにされていることに大きな責任を感じました。
つい2年前に、二期目の選挙がありましたが、自分を頼りにしてくれている人たちの気持ちに対して裏切れないというプレッシャーが重くのしかかり、旧態の選挙の姿を嫌い、後援会組織を作ってこなかった自分を反省しました。

今後、大宮市は確実に大きく、また発展していく可能性を秘めていることは周知の通りであります。
現在、決定していく事柄は、全て自分たちの子どもや孫たちが活躍する時に、彼ら自身が清算しなければならない手形であります。
近い将来に「あの時お父さんたちが、お祖父ちゃんたちが頑張ってくれたから、今はこんなにも暮らしやすいんだね」と感じてもらえるような街が出来上がるように、決断し行動していきたいと考えています。

現在論議されている都市の合併は、国の為でもなく、ましてや新都心の為でもなく、全てがこの地域に暮らす私たち市民の為に成されなければならないことであります。
政治的な約束事も大切なことでありますが、それのみに縛られて、市民の立場に立たず、自らの保身を考えて行動しているのは、大人として正しくない行動だと考えます。
私は、これからも常に皆さんと同じ立場、目線に立って情報を得ながら、皆さんのまちづくりの道具として励んでまいります。  1999年2月

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